ソウムメイト2017”啐啄同時”

2007/08/30 [Thu]

お知らせ~ISDNからひかりへ

 HP立ち上げ当初から長年利用してきたISDN回線と今日でお別れすることになりました。かねてより「ピー、ギョロギョロギョロギョロ…」という怪しい交信音が事務室から漏れ聞こえ、作陶中の生徒の皆様には多大な不安とご心配をおかけしておりましたが、ようやく明日から「ひかり」に切り替えることにしました。かく言う私も、恥ずかしさのあまり事務室にろう城したり、かと思えば急に水道で水を流したりして、なんとか誤魔化そうとしておりました。何故もっと早く、と今となれば思うのですが、様々な迷信や思い込み、吝嗇といったものに固執し、あと一歩が踏み出せずにおりました。HPの画像送信には数分かかっていましたし、画像受信などは大抵フリーズ、未だにパソコンで動画を観たことがありませんので非常に期待している半面、パソコンが拒否反応を示す恐れもあるので(HPサーバーに何故かアクセスできない等、結局こちらの操作ミスに決まっているのですが、一字一句間違えただけでもピクリとも動かないのがパソコンでして)心配でもあります。この教室通信が一週間以上更新されないようでしたら、画面の向こう側で悪戦苦闘して頭を抱えている図をご想像頂けたら幸いです。

 では次回更新できることを祈りつつ…。
2007/08/30 [Thu]

京都・高台寺圓徳院、小間の茶室

 さて、彦根城を散策した後、小一時間程普通電車に揺られて京都に行きました。近畿地方はわずかな移動時間の中で名所旧跡がたくさん集まっていて本当に楽しめます。京都市内は当然のごとく非常に暑かったので、ちょっと贅沢をして貴船の川床料理を食べに行きました。
貴船の川床。渓流によって常に涼しい風がそよぎます

 川床料理というのは文字通り、川の真上や川原に足場を組んで床を張り、涼を取りながら食事ができるというもので、京都市内だと鴨川の川床が有名ですが、真夏は夜でもあまり涼しくありません。その点貴船は、市内の出町柳から叡山電鉄に乗って30分あまり北に行ったところですので、気温が5度くらい違うように感じます。貴船口駅に旅館の送迎車が来てくれて、川沿いの細い道路を5分くらい上流に走ると提灯をぶら下げた料理旅館がたくさん見えてきます。
京都市内、鴨川の川床。暑いので皆室内

 渓流の真上で食事をするので、夜は特に涼しいです。きっとマイナスイオンも豊富だと思われます。お値段は結構しますが、避暑地気分が充分堪能できますのでオススメです。

 さて翌日も京都は猛暑日でしたが、実は茶友の一人から、小間(こま:四畳半以下の茶室。四畳半以上は広間)でお抹茶が頂ける所がある、と教えてもらったので、少しでも涼しい午前中にと、高台寺の塔頭・圓徳院に行きました。真夏にもかかわらず熱いお茶を飲みに行くなんて、どうかしてるとお思いでしょう。同感です。

 圓徳院は秀吉の妻、北政所ねねの終焉の地として知られています。秀吉の没後、北政所ねねは「高台寺」の号を勅賜されたのを機縁に、高台寺建立を発願し、慶長10年(1605)、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住みました。
 圓徳院は寛永9年、ねねの没後9年目に、兄の木下家定の次男利房の手により、高台寺の三江和尚を開基に木下家の菩提寺として開かれ、高台寺の塔頭とされました。
 一番の見所は国名勝指定の北庭で、池泉にかかる橋が巨岩大岩で構築され、後に小堀遠州の手が加えられましたが、桃山時代の豪胆さが今に残されています。

 高台寺の茶室というと傘亭・時雨亭が有名ですが、圓徳院の茶室は三畳台目(さんじょうだいめ:三畳と、通常の畳の四分の三ほどの大きさの畳が点前をする畳として一つ付随したもの)で拝観順路の一番奥にあり、北庭を見渡せる広間から露地草履に履き替えて、にじり口から入ります。

 もちろん点て出し(お点前は無しで、裏の水屋でお茶を点てて出してくれる)ですが、小間の茶室で頂く機会は他ではなかなかありませんので、とても良い雰囲気で美味しく頂きました。茶室はこれまで一般公開されていなかったそうですが、昨年9月の高台寺周辺の企画展の折に、初めて呈茶席として公開したところ好評だったため、それ以降も継続して呈茶をされているのだそうで、あまり一般には知られていないようです。逆に宣伝しすぎてしまうと、一度に席に入れる人数に限りがあるので難しい点もあるようです。

 圓徳院では楽焼の制作もしていて、この時のお茶碗も圓徳院で制作された黒楽の平茶碗でした。高台脇に「政所窯」の陶印があって、高台寺ではその昔「高台寺窯」というのがあったそうですが、現在の窯は先代の住職が興されたとのことでした。

 お茶を運んで来て下さった係りの方にあれこれ貴重なお話をお聞きできて、あっという間に時間が過ぎていきました。茶の湯好きの方にはオススメです。

 お盆休みを利用して色々なところへ出かけましたが、まだまだ旅は続きます。長くなりましたのでまた次回に。
京都・高台寺圓徳院、三畳台目の茶室でお茶をいただきました
2007/08/24 [Fri]

彦根城散策記

 井伊直弼について長々と愚論を展開してしまい、彦根についてほとんど触れることができませんでした。私の郷里から普通電車で小一時間程で行ける距離なのですが、地元に住んでいた頃は歴史に全く興味がなかったせいもあって、ほとんど行ったことがありませんでした。

 彦根は琵琶湖の西畔にあり、電車を降りると地方ならではののんびりとした雰囲気の駅前通りがあります。或いは商業地域は別にあるのかもしれません。通りの奥、小高い緑の上に小さく彦根城の天守閣が見えます。関ヶ原の戦いで勝利した徳川方で活躍した井伊家は、東西の要衝の地である彦根を任され堅牢な城を築きました。天守閣へと向かう石段は敵の侵入を想定して上がりづらく組まれており、橋はすぐ落とせる構造になっていたり、また城内には隠し部屋があったり、銃眼(鉄砲を撃つための穴)が四方八方に穿ってあるなど、実戦を想定した普請になっています。

 当日は大変良い天気に恵まれました、表門を入って右側に進んだ彦根城博物館の前で、ちょうど琵琶湖特産のシジミの味噌汁の無料試食会が開かれており、シジミのエキスが出て、それはそれはとても美味しかったのですが、猛暑日でなかったらもっと美味しく感じたと思います。

 国宝である彦根城は今年築城400年にあたり、11月25日まで様々な特別展やイベントが行われます。その一つが「一期一会 井伊直弼の茶の湯」と題された特別展(8月24日まで)で、彦根城博物館にて直弼の愛用した茶道具や調度品が展示されていました。幅広い学問を修め、陶芸においても自作の七種の蓋置などは玄人裸足。現存する資料からも繊細で真面目な人柄がうかがえます。

 せっかくなので天守閣にも登りました。狭くて急な階段(はしごと言ったほうが近い)を上ると、琵琶湖を一望できて遠く比叡山も見え風通しもよく、意外に涼しくて苦労して登った甲斐がありました。

 本丸を出て、別の石段を下ったところに玄宮園という庭園があります。回遊式池泉庭園というのでしょうか、池の周りをぐるりと歩いて、奥の棟で庭と天守閣を交互に見ながらお抹茶を頂きました。

 城内を出てすぐ、お堀端に直弼が青春時代を過ごした埋木舎(うもれぎのや)があります。建物は国指定特別史跡なので、通常は庭から屋内を眺めるだけなのですが、親切な受付の方が小一時間各所を丁寧にご説明下さり大満足。以前入館したことがある母は今回は門の外で待つことにしたため、5分程で見終わってくる予想を裏切られ、「あんたらいつまで喋っとんの!」と激怒していましたが…。

 彦根城周辺では、よく映画のロケも行われるようで、城内にある開国記念館では、撮影に使われたシーンだけを集めたVTRを観ることができます。最近のものですと「武士の一分」で袴姿の木村拓哉さんが、お堀端で子供と戯れる場面もあり、多くの日本映画の名場面がここで撮られていたことを知りました。

 彦根からさらに小一時間程普通電車に揺られると京都ですが、それはまた次回に。
映画「武士の一分」のロケが行われた埋木舎脇の土手。キムタクが城から下がる折、子供と戯れるシーンが撮られました

2007/08/24 [Fri]

27年振りの再会

 「夏休みなんていらない」と言っておきながら、お盆休みを1日多く頂いて帰省し、中学時代の同窓会に行ってきました。高校卒業と同時に横浜に来て、一時は東京都民になったりしながら、いつの間にか郷里で過ごした時間よりも、こちらでの人生のほうが長くなっていました。本当は出席しようかどうしようか迷っていたのですが、地元での唯一の友人が出席するならば一緒について行こうと、勇気を振り絞って行ってきました。

 そんなに大げさに考えなくても良さそうなものですが、私にとっては気軽に喜び勇んでという訳にはいかなかったのです。

 他人から見たら「なんだ、そんなことで」と思えるようなことでも、当人にとっては大きな悩みだったり、重荷や劣等感になっていることが誰にでもあるのではないでしょうか。私の場合は小学校に上がってから少しずつ自分の中に、ある孤独感が芽生え、それは仲の良い友達と居ても常に心の片隅にあって、胸の奥底に一つだけ、誰にも知られないように頑丈に鍵をかけて、時には家族にさえも気付かれないように毎日を過ごしていました。
 いつしか私は、私のことを誰も知らないという環境を望み、故郷を離れました。

 今の私は横浜で暮らし、本当に素晴らしい友人達や仲間、素敵な方々に出会え、支えられて生きています。それだけはこれまでの私の人生の中で唯一の誇りだと思っています。それが小さな自信となって、今回の同窓会に出てみようと思うきっかけになったのでした。

 27年振りに再会した同級生たち。私は出来の悪い子で、特に小学校では女子の皆さんに随分ご迷惑をかけた記憶があるので(机の中がいつもいっぱいで掃除の時に重くて動かないとか、いつも隣の席の子に宿題を見せてもらったりとか、カワイイ子には想いが空回りしてからかってしまうなど)、可能な限り(識別できる範囲で)女子の皆さんには謝罪して回ったのですが、皆さん本当に優しい方ばかりで、ほとんどの方が「そんなの覚えとらんよ」と言って下さったり、あげくに「田口君は筆箱も上履きも長いことボロボロになるまで大事に使っとったやろ。ウチの子にもよく言って聞かせとるんやで。」と、私の数少ない長所(と言うか、買ってもすぐボロボロにしてたような気が…)を思い出して下さったり…。

 そして男子はみんな昔のあだ名で呼んでくれて、私が人知れず胸の奥底に抱えていたものにさえ、「うん、知っとったよ」とみんなが同じように声を掛けてくれました。誰にも分かってもらえない、自分だけの重荷だと思っていたもの。それをみんなが見守ってくれていたことを初めて知りました。言葉や文字ではうまく表せませんが、彼らの前ではもう頑丈な鍵も、重い扉も必要なくなっていました。

 二年次の担任でお世話になったS先生には、「わんぱくですみませんでした」と謝罪申し上げたところ、「元気があるくらいのほうがええ。よう覚えとるよ、田口君いつも給食さらえてくれたがや」。給食大好きだったんです。最後にバケツ?の底に残ったのをいつもキレイに頂いてました。たまに満腹で遠慮した日には、「田口、どうしたんや」と心配される始末。そういえばこの場を借りて女子の皆さんにまた謝罪。たまに給食に出たプリンをしつこいほどネダってごめんなさい。一日最高5個くらいゲットしてました。

 三年次になるとさすがに私も自重するようになったので(進学とかあるやん)、担任のH先生の私に対する印象は比較的おとなしいものだったと思いますが(自分だけ?そう思ってるの)、よく私のことを覚えていて下さり、最後に握手して頂いた時、「おまえの遺伝子を残せや」とおっしゃって下さいました。う~ん、先生、多分ムリやわ。

 二次会では軟式テニス部時代の仲間で集まり、そのメンバーで三次会へ。夜中の2時過ぎに家が近い三人で歩いて帰りながら、まるで中学生だったあの頃のように他愛無いことでも可笑しくて、涙が出そうでした(←パクリ♪ちょうどその時代だったんで)。

 自分の過去が好きになれなかったり、思い出したくない人も居ると思います。今では私が過去と向き合えるようになるために、27年という時間が必要だったのだと思っています。

 「今何しとるとか、どこに住んどるとか、そんなん関係ない、またみんなで会おうや」。同じ軟式テニス部だったO君もそう言って次回の幹事を買って出てくれました。今回出席できなかったメンバーにもいつか会えたらいいなと、今から楽しみにしています。
2007/08/17 [Fri]

暑い夏に熱い思い

彦根城本丸。井伊直弼の茶の湯展を観にいってきました。とにかく暑い日でした。H19.8.14


 「主客とも余情残心を催し、退出の挨拶終われば、客も露地を出るに高声に話さず、静かにあと見返り出で行けば、亭主はなおさらのこと、客の見えざるまでも見送るなり。さて、中潜り、猿戸、そのほか戸障子など、早々閉めたてなどいたすは、不興千万、一日の饗応も無になる事なれば、決して客の帰路見えずとも、取り片づけ急ぐべからず。いかにも心静かに茶席に立ち戻り、この時、にじり上りより這い入り、炉前に独座して、今しばらくお話もあるべきに、もはやいづ方まで参らるべきかな。今日、一期一会済みて、ふたたびかえらざる事を観念し、或いは独服をもいたす事、これ一会極意の習いなり。この時、寂莫として、うち語らうものとては、釜一口のみにして、他に物なし。誠に自得せざれば至り難き境界なり。」

 茶事に招いた亭主も、招かれた客たちも、名残惜しいなか挨拶を交わす。客たちは露地を出ても声高に話したりせず、振り返りつつ静かに去る。
 亭主の心得はそれ以上に、客たちが見えなくなるまで見送り、玄関の戸や障子などを急いで閉めたりしては、楽しく過ごしたひとときも台無しになるので、客の姿が見えなくなってもすぐに片付けたりせず、心静かににじり口から茶席に戻り、炉の前に独り座り、まだまだ話も尽きないのに、今頃はどの辺りまでお帰りになったかなどと想いながら、今日という一日は二度と返らないという一期一会を胸に刻み、独り茶を点てて飲むこともまた茶人としての極意である。この時、静寂の中にあるものはただ釜の湯の沸く音のみである。まったくもって感得しなければ到達できない境地である。

 これは井伊直弼の著した「茶の湯一会集」にある「独座観念」という一節です。井伊直弼は幕末の大老として安政の大獄を指導したことであまりにも有名ですが、その人生は波乱に満ちたものでした。

 1815年、彦根井伊家の末弟(14男)として生まれたため、本来は殿様になれる可能性の無い人生でした。そのため若い頃は自らの住まいを埋木舎(うもれぎのや)と称して、その境遇を自嘲しつつ悠々自適の飼い殺し生活を過ごしていました。のちに幕末の志士たちに「ちゃかぽん」という隠語で呼ばれるようになったのは、時間を持て余していた埋木舎時代から茶(茶道石州流)や花(華道)に精通していたからだと言われています(ぽんは鼓で能)。

 彼の人生の大きな転機は、兄たちが次々と亡くなってしまったため、井伊家の当主という座が転がり込んだ時から始まりました。ご承知のように井伊家は徳川家の譜代大名で、また時代はペリー来航で風雲急を告げるといった様相を呈していたこともあり、頭脳明晰だった直弼が老中のなかでも更に大老という、今で言う総理大臣の地位にまで登りつめるのに、さほど時間はかかりませんでした。

 作家・司馬遼太郎の短編「桜田門外の変」に次のような一節があります。

 「…井伊は政治家というに値しない。なぜなら、これだけの大獄をおこしながらその理由が、国家のためでも、開国政策のためでも、人民のためでもなく、ただ徳川家の威信回復のためであったからである。井伊は本来、固陋な攘夷論者にすぎなかった。だから、この大獄は攘夷主義者への弾圧とはいえない。なぜなら、攘夷論者を弾圧する一方、開国主義者とされていた外国掛の幕吏を免黜(めんちゅつ)し、洋式訓練を廃止して軍制を『権現様以来』の刀槍主義に復活させているほどの病的な保守主義者である。
 この極端な反動家が、米国側におしきられて通商条約の調印を無勅許で断行し、自分と同思想の攘夷家がその「開国」に反対すると、狂気のように弾圧した。支離滅裂、いわば精神病理学上の対象者である。…」

 私は司馬遼太郎さんの小説で、幕末に関する著述のものは全て読んだつもりですが、ご承知のように彼は非常に文章に長け、その膨大な資料から抽出する歴史認識は「司馬史観」とも呼ばれ、1996年に亡くなられた現在でも、その作品が映画やドラマ化されるほど、日本を代表する歴史小説家の一人ですが、私は前述の解釈に限ってはどうにも納得できない思いでいます。

 もう一度、井伊直弼が書いた最初の文章を読み直して頂ければ、私の申し上げたいことがお分かり頂けるでしょう。これほど情緒に富んだ、深い精神世界を有する人物が、何故このような評価を下されなければならないのでしょうか。

 もちろん直弼が断行した安政の大獄では、吉田松陰、橋本佐内といった傑物たちが命を落としました。しかし立場が違えば彼らもまた、直弼と同様の行動を取らざるを得なかったと思います。徳川幕府という主家の執事となれば、徳川家を守ろうとして当然であって、幕臣の身でありながら幕府は老朽化したから潰してしまえと言っていたのは勝海舟ぐらいのものです。(最近でも似たような政治家がいましたが、彼の評価が定まるにはまだ時間がかかりそうです。)

 歴史は時として一人の人間のほんのわずかな部分だけを誇張、或いは歪曲してあぶり出すことがあるのです。それは歴史が勝利者のものだからに他ならないからでしょう。桜田門外の変で直弼が凶刃に倒れた瞬間から、歴史は大きく展開していくことになります。そしてそのわずか7年後、徳川幕府は消滅し明治政府が誕生しました。勝利した明治政府から見れば直弼は悪人以外の何ものでもない。そして現在でも直弼の評価が低いのは、いまだに日本人の多くが明治政府を勝利者として考えているからでしょう。

 明治維新ののち、文明開化を進めた日本がようやく辿り着いた先は第二次世界大戦でした。司馬遼太郎さんが幕末から明治にかけた作品を数多く手掛けたのも、そこに「昭和」の根幹があるからなのだと思います。彼が「昭和」=第二次大戦を書かなかったのは、彼にとってそれは既に結果でしかなく、興味の対象にはならなかった。
 戦時下、茨城で戦車による軍事訓練をしていた若き日の司馬氏が、「もし東京に敵軍が上陸した場合、自分たちの軍が東京へ向かうのと、市民がこちらに向かって避難してくるのとで沿道が混乱した時は?」と上官に尋ねた際、その上官の答えは「市民は轢き殺して行け」というものだった。彼が小説を書く理由として、その当時の自分自身に宛てた手紙なのだ、と述懐しています。

 歴史をしっかりと認識すること。これは立場や時間軸によっても解釈が大きく異なり、容易にはいかないことかもしれませんが、それらを踏まえながら理解しようとすることが大切だと思います。私たちを取り巻く現代の日本社会には多くの問題が散在しています。それらは突発的に発生したのではなく、歴史の積み重ねの中から染み出してきているものだと私は思います。それらの根本的な原因を知ること、つまり歴史をしっかりと認識するということが、問題解決への糸口になると私は確信しています。

 暑い真夏に熱い文章で申し訳ありません(しかも長っ!)。お盆で帰省した折、隣県の滋賀県・彦根で開催されている「国宝・彦根城築城四百年記念特別企画展 一期一会~井伊直弼の茶の湯~」を観てきました。歴史認識、或いは終戦を思うこの時期にどうしても書かなければ、とついつい長文になってしまいました。
天守閣から西に琵琶湖、遠く叡山を望む

井伊直弼生誕地の碑。ほとんど気付かれることもなく、ひっそりと佇んでいました

井伊直弼が青春時代を過ごした埋木舎(うもれぎのや)

城内にある庭園、玄宮園より天守閣を望む

2007/08/10 [Fri]

夏の道具

 暦の上では立秋を過ぎましたが、まだまだ夏真っ盛り。自分だけでなく他のメンバーも熱中症にならないように、皆で声を掛け合って注意を払いながらのテニスです(雪山登山か)。審判台に座るのも危険なので、休憩中は全員日陰に避難です。

 明後日12日(日)から16日(木)までは、教室も夏季休業させて頂きます。受講日は18日(土)からです。

 さて茶の湯では、暑い夏には涼感ある道具を使います。平水指は水面が客からも見えて涼やかに、平茶碗はあまりお湯の熱がこもらないようにという、亭主の心遣いです。
 そのような夏の道具の中で、四滴茶入(してきちゃいれ)というものがあります。
四滴茶入(右から弦付、水滴、油滴、手瓶)

 四滴茶入とは薄茶器として用いられる陶器の茶器で、弦付(つるつき:蔓付とも。一般的な茄子形の茶入の上にやかんのような取っ手がついたもの)、水滴(急須のような注ぎ口(穴は開いてない)と、その反対側にポットのような取っ手がついたもの)、油滴(ゆてき:水滴の取ってのないもの)、手瓶(てがめ:水滴の注ぎ口のないものの四種を総称していいます。四つ茶器とも称し、個々別々に使用し、扱いも異なります。水滴のみ仕服を添わせて濃茶点前にも用いることがあります。
 様々な道具を使って、夏の茶事は朝6時ころから始めます。これを朝茶といって、招かれる客も大変ですが、招く亭主はもっと早起きしなくてはならないので更に大変です。私も月末には朝茶(さすがに6時集合とはいきませんが)をいつものメンバーで予定しています。

 それではまた。お盆休みで帰省される方はお気をつけて。帰省されない方はごゆっくり?休みのない方はガンバッテ~!
2007/08/03 [Fri]

梅雨明けと花火

 横浜も一昨日ようやく梅雨明けしました。蒸し暑い毎日が続いていますが、夏はやっぱりこうでなくちゃ。

 さて先日の土日の二日間、毎年恒例になりました京都伝統工芸大学校(スタッフ三人の母校です。旧京都伝統工芸専門学校)の東京説明会のお手伝いに、西新宿へ出張してきました。校長先生、陶芸の師匠、木工芸、竹工芸の方々とも久しぶりの再会です。土曜の夜はモチロン打ち上げで、師匠を囲んで陶芸だけでなく、色々なお話を聞かせて頂いて、いつもながらとても勉強になりました。説明会に来られた皆さんが作られた手びねりの作品を、横浜の教室まで車で持ち帰り、削りをして焼成して発送します。到着は11月上旬頃の予定です。
TASK東京説明会の様子です



 梅雨明け発表があった水曜日の夜は花火大会があり、教室からも見えました。不思議なもので二階からよりも、一階で陶芸をしながらのほうが何故か大きく見えました。
教室から見た花火。うまく撮るのは難し~い



 6月の山手234番館の生徒作品展が一冊の本になりました。教室のHPを制作してくれたYちゃんが、撮影から製本まで手作りで作ってくれたのです!素晴らしい仕上がりになっていますので、是非皆さん教室で手にとってご覧下さい。Yちゃんありがとう!
作品展がかわいいミニブックに!

 実は以前住んでいたマンションで知り合ったご夫婦と、Yちゃんご夫婦(ご主人はRさん)が友達同士で、そうとは知らずRさんとは、たまたまテニススクールでご一緒してからお話しするようになって、そうこうするうちにそれぞれ知り合いだということが分かって、世間の狭さに驚くとともに、教室のオープン前にご両家(?)に遊びに来て頂いたりして、ずっと友達付き合いをさせてもらっています。
 HP作成の時も、素人の私のわがままを根気強く聞いて下さり(職業でもないのに)、現在の素敵なHPを構築してくれました。本当に感謝しています。

 テニスや陶芸や茶道でたくさんのご縁を頂き、またこれからも色んな出会いがたくさんあると思います。その一つ一つは本当に有難いことだと思っています。

 雨が上がればテニスができる喜びを、季節が移ろえば茶の湯もまた嬉しく、そして午後ともなれば教室で生徒の皆さんに会える。私には夏休みはいりません。長い休みなど欲しくないんです。毎日毎日が素晴らしく、そうして一週間、一ヶ月、一年はめぐって来てくれるから。日々変化していく素敵な日常に感謝しています。

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山手陶芸教室 ソウム課だより

Author:山手陶芸教室 ソウム課だより
『貴方の意志が本当に強い時、驚くべきほど多くのことを学ぶことが出来る。』
by チャック・ベリー先輩

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