前回抹茶碗の計量をしてみました。数値で表記すると1g違っても大きな差のように感じますが、複数の茶碗を手にとって感覚だけで重さを比べてみたところ、10gぐらい違ってもそれほど重さの違いが分からないと実感しました。
 重さにしても寸法にしても他と比較するからこそその差異が意識されるわけで、寸法に関しては比較する以前に適切な容量が確保できていれば茶碗として十分なのですが(見込み=内部の形状にもよりますが)、重さというのはそういった「茶を点てて飲む」という行為に、物理的に深刻な影響を与えないものなのでしょう。だからこそ重さを数値化して認識するという意識が存在しないのかもしれません。
 前回の志野茶碗Aは使用時には700g近くになり、計量する前から重過ぎる茶碗という印象がありました。作者が茶道の心得があるのかどうかは分かりませんが、そう勘繰りたくなるほど形や釉の発色よりも意識せざるを得ない要素になっています。しかしそれは茶道寄りの側から見た一面に過ぎません。
 重さに限らず形状についても同様のことが言えると思います。先ほど見込みについて注釈を入れましたが、一見問題のない形状をしている見込みでも、お茶が点てにくいことがあります。やはり現代の美濃の志野茶碗で、半筒型の形も釉の発色も素晴らしいものがあったのですが、半筒の形状がそのまま内側に影響して見込みに角(かど)があるものでした。見込みに角があるとお茶を点てる時そこに抹茶の粉が入ってしまい、茶筅が届かずダマになってしまうことがあります。私などはついついそんなところに目くじらをたててしまいますが、しかしこれと同様の見込みを持つ、慶長年間(1596~1614)に作られたという織部茶碗も以前見たことがあります。こちらに対しても同じように目くじらをたてるのがスジというものなのでしょうが、本物がそういう形状ということは何か意図があってのことなのでは、と寛大に容認してしまったりします。
 純粋芸術の場合で考えますと、制作者と鑑賞者が作品に対してのみ個々の精神的衝動を自覚することで、初めて芸術として成立するわけですが(仮に制作者の意図と鑑賞者の受け取り方が相違しても良いわけですが)、どちらか一方が欠けた場合には芸術ではなくなってしまいます。例えば制作者にとってその作品がいかに思い入れがあるものであっても、鑑賞者が作品から何も喚起されないなどといった場合です。ところが逆に、制作者に何も意図がなく作られた作品が鑑賞者に特別な衝動を与えるような場合、芸術は成立しませんが茶道の世界では評価されることがあります。高麗の井戸茶碗などは名もない陶工が雑器として作ったものを、日本の茶人がそこから侘びや寂びといった感覚を喚起させられ抹茶碗として用いられるようになったものですし、竹編みの桂籠花入(かつらかごはないれ)は漁夫が腰に下げていた魚籠(びく=釣った魚を入れるかご)を千利休が鉄鐶をつけて掛花入に仕立てたものです。どちらも制作者には特別な意図はなく、ただ用が足りるためだけに作られたものですが、鑑賞者がそこに用途以外の美意識を見い出したのです。抹茶碗というものは用途だけがその存在価値ではないわけですから、制作者が有名無名に関わらず鑑賞者がそこに存在意義を見い出して使用すればそれで良いわけです。極論を言えば抹茶碗は鑑賞者だけのもので、制作者が容喙する余地はないのかもしれません。作品が完成して制作者の手を離れた瞬間それはもう制作者のものではないという、芸術の基本姿勢にも共通するところでしょう。
 重さについて話を戻しますが、結局抹茶碗の重い軽いというのは使う人それぞれの感覚だけであって、同じ茶碗をとっても人によって重かったり軽いと感じたりする主観的なものなのでしょう。それは全く自由な感覚であって正解があるわけではなく、季節や体調によって変化しようとも許容されるべきものだと思います。それはまるで薄茶の濃い薄い、量の多い少ないについて、適正な分量を論じるのと大差ないことなのでしょう。
 抹茶碗の重さについて長らく書いてまいりましたが、これを一つの結論として、機会のあるごとに思い返してさらに精進していこうと思います。

 …水指の重さはどうだろ?
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