ソウムメイト2017”啐啄同時”

2006/05/26 [Fri]

抹茶碗の重さ・完結編

 前回抹茶碗の計量をしてみました。数値で表記すると1g違っても大きな差のように感じますが、複数の茶碗を手にとって感覚だけで重さを比べてみたところ、10gぐらい違ってもそれほど重さの違いが分からないと実感しました。
 重さにしても寸法にしても他と比較するからこそその差異が意識されるわけで、寸法に関しては比較する以前に適切な容量が確保できていれば茶碗として十分なのですが(見込み=内部の形状にもよりますが)、重さというのはそういった「茶を点てて飲む」という行為に、物理的に深刻な影響を与えないものなのでしょう。だからこそ重さを数値化して認識するという意識が存在しないのかもしれません。
 前回の志野茶碗Aは使用時には700g近くになり、計量する前から重過ぎる茶碗という印象がありました。作者が茶道の心得があるのかどうかは分かりませんが、そう勘繰りたくなるほど形や釉の発色よりも意識せざるを得ない要素になっています。しかしそれは茶道寄りの側から見た一面に過ぎません。
 重さに限らず形状についても同様のことが言えると思います。先ほど見込みについて注釈を入れましたが、一見問題のない形状をしている見込みでも、お茶が点てにくいことがあります。やはり現代の美濃の志野茶碗で、半筒型の形も釉の発色も素晴らしいものがあったのですが、半筒の形状がそのまま内側に影響して見込みに角(かど)があるものでした。見込みに角があるとお茶を点てる時そこに抹茶の粉が入ってしまい、茶筅が届かずダマになってしまうことがあります。私などはついついそんなところに目くじらをたててしまいますが、しかしこれと同様の見込みを持つ、慶長年間(1596~1614)に作られたという織部茶碗も以前見たことがあります。こちらに対しても同じように目くじらをたてるのがスジというものなのでしょうが、本物がそういう形状ということは何か意図があってのことなのでは、と寛大に容認してしまったりします。
 純粋芸術の場合で考えますと、制作者と鑑賞者が作品に対してのみ個々の精神的衝動を自覚することで、初めて芸術として成立するわけですが(仮に制作者の意図と鑑賞者の受け取り方が相違しても良いわけですが)、どちらか一方が欠けた場合には芸術ではなくなってしまいます。例えば制作者にとってその作品がいかに思い入れがあるものであっても、鑑賞者が作品から何も喚起されないなどといった場合です。ところが逆に、制作者に何も意図がなく作られた作品が鑑賞者に特別な衝動を与えるような場合、芸術は成立しませんが茶道の世界では評価されることがあります。高麗の井戸茶碗などは名もない陶工が雑器として作ったものを、日本の茶人がそこから侘びや寂びといった感覚を喚起させられ抹茶碗として用いられるようになったものですし、竹編みの桂籠花入(かつらかごはないれ)は漁夫が腰に下げていた魚籠(びく=釣った魚を入れるかご)を千利休が鉄鐶をつけて掛花入に仕立てたものです。どちらも制作者には特別な意図はなく、ただ用が足りるためだけに作られたものですが、鑑賞者がそこに用途以外の美意識を見い出したのです。抹茶碗というものは用途だけがその存在価値ではないわけですから、制作者が有名無名に関わらず鑑賞者がそこに存在意義を見い出して使用すればそれで良いわけです。極論を言えば抹茶碗は鑑賞者だけのもので、制作者が容喙する余地はないのかもしれません。作品が完成して制作者の手を離れた瞬間それはもう制作者のものではないという、芸術の基本姿勢にも共通するところでしょう。
 重さについて話を戻しますが、結局抹茶碗の重い軽いというのは使う人それぞれの感覚だけであって、同じ茶碗をとっても人によって重かったり軽いと感じたりする主観的なものなのでしょう。それは全く自由な感覚であって正解があるわけではなく、季節や体調によって変化しようとも許容されるべきものだと思います。それはまるで薄茶の濃い薄い、量の多い少ないについて、適正な分量を論じるのと大差ないことなのでしょう。
 抹茶碗の重さについて長らく書いてまいりましたが、これを一つの結論として、機会のあるごとに思い返してさらに精進していこうと思います。

 …水指の重さはどうだろ?

この記事へのコメント

芸術論(勝手な)。

あなたが言うように、抹茶碗を持つ人の手の大きさ、飲む量が違うように、心地良いと感じる重さも十人十色なのでしょうね。私のように小さな手でいただくのと大きな男性が手に取るのとでは、すでに手に馴染む具合も違うでしょう。ただ面白いのは、二者とも、また万人においても「心地良いのはここだ」と感じる瞬間があるということ。その感覚自体が芸術のような気がします。
夕焼けを見て誰しも「美しい」と思います。当たり前のようですが、感覚が一番優れているその瞬間こそが、最も芸術性が高いような気がします。
結局芸術とは、美を認識する人の心の中に存在するのではないでしょうか。それがポッコリと目の前に表現されていれば芸術品として成り立つのではないかな。いくら芸の術と言っても、芸を美しいと感じるのは心自体だから。
人が作品を作る。その作品を本人が自分とは別の存在としてとらえた時、二つの物体の間に空間的な距離はあれど純粋な美しい感覚が重なれば、それは他人が入らなくても芸術品と言えるのではないでしょうか。また他人が作った作品(はたまたただの物)は美しいと思ったその人を象徴しているから芸術品になりえるのではないでしょうか。芸術品が芸術なのではなく、芸術品だと感じるその心が芸術なのだと思います。品物はその心を代用して目に映る形として我々の前に存在する気がします。その価値を見出すのは制作者か、鑑賞者か。私は制作者も鑑賞者の一人だと考えます。
だってもともと芸術なんて贅沢なもの。誰かの自己が満足した時芸術は発生するのでないかね。それが一人(制作者=鑑賞者)でも二人(制作者又は鑑賞者+鑑賞者)でも大勢(制作者又は鑑賞者+鑑賞者×複数)でも良いのではないでしょうか。大勢が認めれば「優れた芸術品」と呼ばれるかもしれませんが。
先人でも生きている間は阿呆者扱いだったのに、自分の知らない何十年も先で勝手に芸術家になったりもしますよね。切ないではないですか。
私は自分の作品は芸術品だと信じたいですね。誰が見なくとも、自分が心から楽しみ自分を発散し、自分という生命を感じれば、自分という宇宙の芸術品・(美を感じとる意識を持つ)一生命体を鑑賞出来ますから。だから子供の絵にもものすごいエネルギーを感じるのかも知れません。
・・・以上あきコの(勝手な)芸術論でした。
コンセプチュアルアートが言わんとする象徴かもね。作家が芸術と認めることが芸術なんて。本人だけ思い入れが強すぎると確かにつまらんが、結局誰かか楽しめれば良いものだとも、思うかもかも。

あきコちゃん、コメントありがとう!
 芸術論炸裂で今後激しい議論も予想されますが、細かい違いはともかく要するに素晴らしい作品を鑑賞したり制作することによって得られるものは、何物にも代え難いということでしょうか(適当にまとめた?)。
 ところで、小さな手で持っても大きな手で扱っても「心地よい」という茶碗は確かにありますね。これは重さや質感も影響しているのでしょうけれど、最も重要なのは形状(寸法)ではないかと思います。
 茶道では「取り置きがしやすい」という表現を使ったりしますが、個々の身体の寸法(つまり背が高いとか、恰幅が良いとかといった体型)に関わらず、茶室の中では決められた寸法の道具と空間で誰しもが点前をし、お茶を頂きます。畳、柄杓、茶筅の大きさ、そして風炉釜や水指とそれらを置き合せる位置など。私のような全体的に長いパーツの人体を持つ者ですと、例えば客の着座の位置として畳の縁から十六目下がったところに座るということが困難で、正座したつま先が後ろの壁につきそうになり扇子を置く位置などありません。点前の時も、柄杓が届き過ぎて肘を曲げてしまい格好良くなかったりします。しかしある程度慣れてくるとそれなりに身ごなし出来るようになってきます。日常生活でも同様に、例えばドアノブの位置とか電気のスイッチの高さ、或いは各家庭によって異なる階段の幅と高さなども、長年使っているうちに慣れてくるように。
 誰にとっても「取り置きがしやすい」茶碗というのは、畳、柄杓、茶筅などの決められた共通の寸法と空間に呼応する大きさなのかもしれませんね。
 それから話は変わりますが、不遇のまま亡くなった芸術家が死後評価されるということは切ない、ということですが、貧困生活や病を長く患ったといったものは別として、私はその芸術家が自分の内なるものを表現しきれていたのであれば、満足できるのではないかと思います。その時代に全く受け入れられなかったとしても、作品が現存し続けるためにはわずかでも理解者がいたと考えられますので、単純に有名か否かという数的な事柄なのでしょう。有名とは一体人口の何パーセント以上の認知のことを指すのか分かりませんが、芸術の本質とはあまり関係ないように思います。子供の絵には表現以外のそういった無駄な意識が全くないからこそ、強烈な印象を持つ作品が多いのではないでしょうか。ただ日本の子供たちの絵の場合、小学校の高学年あたりから技巧的になってつまらなくなるように感じます。観ていて最もエキサイティングなのは五才くらいから小学校低学年まででしょうか。
 そういう意味では純粋な心を持ち続けるということが、芸術だけに留まらず人生さえも豊かにしてくれるのだと思います。

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