昨日までは5月と思えぬほど暑い日が続きましたが、今日の横浜は久しぶりに雨が降って、少しひんやりしています。物騒な出来事や理解に苦しむ事件が多い昨今、人心の荒廃が叫ばれていますが、たとえば茶の湯に親しむことも、心を豊かにする一つの方法だと思います。

 さて以前書いた「箱と箱書」の補足を書きます。

 近年の宗匠の箱書のある茶道具の中に、仮に一つだけ、千利休の箱書のある道具を持っていたとしても、他の道具との釣り合い(バランス)を考慮して使用しません。この辺りの機微というか感覚は、茶道ならではと言えるかもしれません。千利休の道具を使いたければ、それに見合ったさらに格の高い道具類が必要なわけで、ますます多額な出費が必要となります。良い道具を一つ買えば、それに釣り合う道具が必要となり、さらに季節のもの、由緒のあるものと広がっていき、際限なく道具を集めなくてはならなくなっていきます。

 大寄せの茶会に行きますと、床の間の横の食い違い棚の辺りに、その茶席で使用している道具の箱の蓋だけがずらりと並べられているのをよく見かけます。香合、茶入、茶碗、茶杓などの箱の蓋が、すべて裏向きに置いてあり、どの道具に誰の箱書があるか、一目瞭然になっています。

 こういった光景は茶道の外の世界から眺めると奇異に映るかもしれません。あるいは道具の誇示とも取られかねないと思います。本来は客をもてなし、楽しんでもらうためにできるだけ良い道具を使うという、亭主の心遣いが発露なのですが、それが高じて、昨今の茶会では箱書がない道具は使えないという事態を招いているようです。手持ちの道具が少ない席主は、自分の師匠や茶道具商に道具を借りてまで茶会をすることも、今や当たり前のことのようになっています。

 私自身、これらのことを批判するつもりも否定するつもりも全くありません。むしろこのようなお茶会に毎回喜んで出かけて行っては、茶道具を観て眼福などとのたまっているわけで、正直に申しますとまだまだ修行中の身ですから、現行の茶道界とそれを取り巻く環境にまずはどっぷりと漬かって、それらを我が物としてから一切合財を両断しようという心積もりでおります。あるいはそれからが、本当の意味での修行の始まりなのだとも考えています。
 


 「物を所有したり、自意識を働かせたりというのは、ある意味ではたいせつなことですが、ともすればそれに執着してしまいます。だから争いの心を持ったり、妬みの心が起こったり、怒ったり、悲しんだりするのです。そういうものの本質を調べていくと、実は問題となるようなことなど、本来何も存在しないんだということがわかってきます。そうすると気持ちが非常に楽になります。
 そして執着心というものを捨ててしまうと、無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)であるということがわかるのです。一物もないということは全部あるということです。自分の心の中の囲いをすべてとり除いてしまえば、一切がわがものとなるのです。」有馬頼底著 よくわかる茶席の禅語 主婦の友社刊より、無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)から抜粋
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