彦根城本丸。井伊直弼の茶の湯展を観にいってきました。とにかく暑い日でした。H19.8.14


 「主客とも余情残心を催し、退出の挨拶終われば、客も露地を出るに高声に話さず、静かにあと見返り出で行けば、亭主はなおさらのこと、客の見えざるまでも見送るなり。さて、中潜り、猿戸、そのほか戸障子など、早々閉めたてなどいたすは、不興千万、一日の饗応も無になる事なれば、決して客の帰路見えずとも、取り片づけ急ぐべからず。いかにも心静かに茶席に立ち戻り、この時、にじり上りより這い入り、炉前に独座して、今しばらくお話もあるべきに、もはやいづ方まで参らるべきかな。今日、一期一会済みて、ふたたびかえらざる事を観念し、或いは独服をもいたす事、これ一会極意の習いなり。この時、寂莫として、うち語らうものとては、釜一口のみにして、他に物なし。誠に自得せざれば至り難き境界なり。」

 茶事に招いた亭主も、招かれた客たちも、名残惜しいなか挨拶を交わす。客たちは露地を出ても声高に話したりせず、振り返りつつ静かに去る。
 亭主の心得はそれ以上に、客たちが見えなくなるまで見送り、玄関の戸や障子などを急いで閉めたりしては、楽しく過ごしたひとときも台無しになるので、客の姿が見えなくなってもすぐに片付けたりせず、心静かににじり口から茶席に戻り、炉の前に独り座り、まだまだ話も尽きないのに、今頃はどの辺りまでお帰りになったかなどと想いながら、今日という一日は二度と返らないという一期一会を胸に刻み、独り茶を点てて飲むこともまた茶人としての極意である。この時、静寂の中にあるものはただ釜の湯の沸く音のみである。まったくもって感得しなければ到達できない境地である。

 これは井伊直弼の著した「茶の湯一会集」にある「独座観念」という一節です。井伊直弼は幕末の大老として安政の大獄を指導したことであまりにも有名ですが、その人生は波乱に満ちたものでした。

 1815年、彦根井伊家の末弟(14男)として生まれたため、本来は殿様になれる可能性の無い人生でした。そのため若い頃は自らの住まいを埋木舎(うもれぎのや)と称して、その境遇を自嘲しつつ悠々自適の飼い殺し生活を過ごしていました。のちに幕末の志士たちに「ちゃかぽん」という隠語で呼ばれるようになったのは、時間を持て余していた埋木舎時代から茶(茶道石州流)や花(華道)に精通していたからだと言われています(ぽんは鼓で能)。

 彼の人生の大きな転機は、兄たちが次々と亡くなってしまったため、井伊家の当主という座が転がり込んだ時から始まりました。ご承知のように井伊家は徳川家の譜代大名で、また時代はペリー来航で風雲急を告げるといった様相を呈していたこともあり、頭脳明晰だった直弼が老中のなかでも更に大老という、今で言う総理大臣の地位にまで登りつめるのに、さほど時間はかかりませんでした。

 作家・司馬遼太郎の短編「桜田門外の変」に次のような一節があります。

 「…井伊は政治家というに値しない。なぜなら、これだけの大獄をおこしながらその理由が、国家のためでも、開国政策のためでも、人民のためでもなく、ただ徳川家の威信回復のためであったからである。井伊は本来、固陋な攘夷論者にすぎなかった。だから、この大獄は攘夷主義者への弾圧とはいえない。なぜなら、攘夷論者を弾圧する一方、開国主義者とされていた外国掛の幕吏を免黜(めんちゅつ)し、洋式訓練を廃止して軍制を『権現様以来』の刀槍主義に復活させているほどの病的な保守主義者である。
 この極端な反動家が、米国側におしきられて通商条約の調印を無勅許で断行し、自分と同思想の攘夷家がその「開国」に反対すると、狂気のように弾圧した。支離滅裂、いわば精神病理学上の対象者である。…」

 私は司馬遼太郎さんの小説で、幕末に関する著述のものは全て読んだつもりですが、ご承知のように彼は非常に文章に長け、その膨大な資料から抽出する歴史認識は「司馬史観」とも呼ばれ、1996年に亡くなられた現在でも、その作品が映画やドラマ化されるほど、日本を代表する歴史小説家の一人ですが、私は前述の解釈に限ってはどうにも納得できない思いでいます。

 もう一度、井伊直弼が書いた最初の文章を読み直して頂ければ、私の申し上げたいことがお分かり頂けるでしょう。これほど情緒に富んだ、深い精神世界を有する人物が、何故このような評価を下されなければならないのでしょうか。

 もちろん直弼が断行した安政の大獄では、吉田松陰、橋本佐内といった傑物たちが命を落としました。しかし立場が違えば彼らもまた、直弼と同様の行動を取らざるを得なかったと思います。徳川幕府という主家の執事となれば、徳川家を守ろうとして当然であって、幕臣の身でありながら幕府は老朽化したから潰してしまえと言っていたのは勝海舟ぐらいのものです。(最近でも似たような政治家がいましたが、彼の評価が定まるにはまだ時間がかかりそうです。)

 歴史は時として一人の人間のほんのわずかな部分だけを誇張、或いは歪曲してあぶり出すことがあるのです。それは歴史が勝利者のものだからに他ならないからでしょう。桜田門外の変で直弼が凶刃に倒れた瞬間から、歴史は大きく展開していくことになります。そしてそのわずか7年後、徳川幕府は消滅し明治政府が誕生しました。勝利した明治政府から見れば直弼は悪人以外の何ものでもない。そして現在でも直弼の評価が低いのは、いまだに日本人の多くが明治政府を勝利者として考えているからでしょう。

 明治維新ののち、文明開化を進めた日本がようやく辿り着いた先は第二次世界大戦でした。司馬遼太郎さんが幕末から明治にかけた作品を数多く手掛けたのも、そこに「昭和」の根幹があるからなのだと思います。彼が「昭和」=第二次大戦を書かなかったのは、彼にとってそれは既に結果でしかなく、興味の対象にはならなかった。
 戦時下、茨城で戦車による軍事訓練をしていた若き日の司馬氏が、「もし東京に敵軍が上陸した場合、自分たちの軍が東京へ向かうのと、市民がこちらに向かって避難してくるのとで沿道が混乱した時は?」と上官に尋ねた際、その上官の答えは「市民は轢き殺して行け」というものだった。彼が小説を書く理由として、その当時の自分自身に宛てた手紙なのだ、と述懐しています。

 歴史をしっかりと認識すること。これは立場や時間軸によっても解釈が大きく異なり、容易にはいかないことかもしれませんが、それらを踏まえながら理解しようとすることが大切だと思います。私たちを取り巻く現代の日本社会には多くの問題が散在しています。それらは突発的に発生したのではなく、歴史の積み重ねの中から染み出してきているものだと私は思います。それらの根本的な原因を知ること、つまり歴史をしっかりと認識するということが、問題解決への糸口になると私は確信しています。

 暑い真夏に熱い文章で申し訳ありません(しかも長っ!)。お盆で帰省した折、隣県の滋賀県・彦根で開催されている「国宝・彦根城築城四百年記念特別企画展 一期一会~井伊直弼の茶の湯~」を観てきました。歴史認識、或いは終戦を思うこの時期にどうしても書かなければ、とついつい長文になってしまいました。
天守閣から西に琵琶湖、遠く叡山を望む

井伊直弼生誕地の碑。ほとんど気付かれることもなく、ひっそりと佇んでいました

井伊直弼が青春時代を過ごした埋木舎(うもれぎのや)

城内にある庭園、玄宮園より天守閣を望む

Secret

TrackBackURL
→http://yamatetougei.blog46.fc2.com/tb.php/76-f2ef6c41